Instagramの自分の写真を見返して考える

あけましておめでとうございます。

年末からあまり調子が良くなかったのですが、どんなに調子が悪くても、とりあえずiPhoneから毎日アップロードしていたInstagram

今日は、ぼーっとしながらiPhoneで自分がInstagramにアップロードした写真を見返しながら考えたこと。

印象的な写真には、何らかの感情が込められています。

それは人によっては「自己顕示欲」だったり「承認欲求」みたいなものだったりするのかもしれませんが、それは否定すべきことではないでしょう。また、被写体に一歩踏み込むような熱量が必要なんじゃないかとも思っています。被写体にグッと迫ったような写真から、人は勝手に何らかのストーリーを連想します。

でもね。

僕の写真にはあまり深い感情は込められていません。一回あるサイトに写真を投稿したとき、割と思ってもないようなことを写真の説明に書いたら、それに反応するコメントがいくつか書かれて恐縮してしまいました。

さらに言えば、自分の写真は被写体に対して「一定の距離感」があるようにも感じられます。悪い言い方をすれば「踏み込みが足りない」というところになるわけですが、自分としてはこれが「心地よい距離感」だと思っています。

本屋でパラパラと写真雑誌を眺めていて(※ただの立ち読みです)、「普段はサラリーマンで通勤途中にスナップを撮っていて、賞を貰ったりしている人」というのが載っていたんですが、自分にとってはその撮り方にちょっとした「狂気」を感じたんですよね。

そうじゃない。

人間は歳を重ねていくと、どんどん無駄な知識や経験が増え、愚痴っぽくなったり、どうしようもないことを説教したくなっていきます。伝え方は人それぞれですが、まあ、割とそんなもんだよなぁ、と思います。お酒を飲むとそれが悪い方向に開放されることが、あるようなないような気もするのですが、本当はそんなことしたくない。

そして、自分の写真からも強い感情はできる限り抜きたいのです。

「これ、いいだろ!とりゃあ!」って感じじゃなくて、もっと緩い「これ、いいなぁ」ってくらいのニュアンスを伝えたいんですね。

こういう写真の撮り方は、趣味だからこそ許されるものなので、SNS向けの写真の撮り方、ともズレているはずですが、自分にとって「無理」がなく、すごく自然な写真の撮り方だと思っています。

Twitterアカウントの固定ツイートの『「継続すること」を重視して写真を撮っています。』というのは、つまるところ、そういうことなのです。